とある美術教師の制作日記

絵の制作や教育のことなんかのつぶやき

人間の器の育て方。

昨日と今日、学校の終礼でした話。

期末考査の監督をしながら、ふと思いついて生徒にした話。

 

「器の大きな人、器の小さな人という表現がある。

この器って何を指すか、わかる?」

 

「心の大きさや人間の大きさ、すごい人など・・・」と生徒は答える。

そこで柔らかい粘土で作った小さな器を生徒に見せながら、

それとは別に「高校と名札をつけたもう少し大きな器」を取り出す。

 

今、みんなはこの小さい粘土の器だとして、

大きな高校という器の型に合わせようと引き伸ばしているところだ。

でも、小さな器の粘土の量のままだと、(粘土の量が少なくて)高校という器に合わせるには足りない。

だから日頃の勉強や、こういう定期考査に向けて対策したりしながら、

さまざまな経験をして成長することで、もととなる粘土を増やして、

高校生という器に合わせて大きくなろうとしている。

途中でその型に合わせるのが嫌だと投げ出す、つまり高校を辞めてしまうと

粘土が少ない量のままで中途半端になってしまう。

そのままでも、それなりに形を整えることができる(見栄えのこと)。

(カッターで切って形を整えて見せる)

小さくてもかわいかったり、かっこよかったりと。

でも、器自体は小さいので、物はあまり入らない。(お菓子を少しだけ入れる)

何かあるとすぐにいっぱい、いっぱいになる。

器が大きいとちょっと苦手なものなんかを入れても、気にせず多くのものが入る。

色々なことがあってもそんなにびくともしない。

 

逆に勉強していれば良いかというと、

勉強しているだけでは頭でっかちになって(一輪挿しみたいな壺を出して)

高さは出るけれど、横への広がりが少なく、物はあまり入らない。

(壺の口にお菓子を詰まらせてみる)

勉強だけでなく色々な経験を通して、バランスよく大きくならないといけない。

 

こういう高校みたいな器の型があって、それに合わせていくと目標がわかりやすく、

器をバランスよく大きくしやすい。

かといって型に合わせすぎるとみんな似たり寄ったりになってしまう。

 

社会に出てしまうとなかなか、その土台となる粘土(自分の力)を増やしにくい。

生活などに追われてしまって、形や色を整えることはできるけど。

また、目標となる器の型が見えにくくてどう形を作っていくかわかりにくくなる。

 

自分では器をどう大きくしてかを考えて、

資格を取ったり、本で勉強したり、様々な社会経験の中から伸ばすなどになる。

自分で考えなくてはならない。

 

初めから器の大きな人はいない。

何かの器の型(目標)に合わせて努力しているうちにその型にふさわしい、

大きさの器になる。

みんなは自分をどんな器に育てていくか、それが一番に伸びるのが学生の時期。

細々したことに囚われず、まずは器を育てていってほしい。

という話を昨日した。

 

なぜ、今日まで続いたかというと、

「先生、横にとても広いけど、縁(ふち)のない真っ平な器はどんな人ですか?」

と質問が来たからだ。

副担任の先生とそのあと考えてみた。

大きく2つあるかなと考えた。

1つは淵のない皿は、「器」ではない。

淵で受け止められるから器の役割ではないかと。

それは器ではなく、板じゃないか。

 

縁の部分は何を指すのか、そこが悩んだ。

考えた答えは、上にただ伸びたら頭でっかちだったので、

やはり縁は、学力の部分ではないかと。

ただ横に広いだけでは、心が広くて優しいのだけれど、

この器の人には知恵がなくて、実は人を逃してしまう優しさだと。

 

優しさには気配り(知恵)がいる。

そういうタイプの人を先生の例でやってみると

「テスト勉強を1分頑張ったの、えらいね〜すごいね〜」と褒めて、

その後、「ごめん、赤点で留年だから」みたいな人なのかなと伝えた。

 

ただ、勉強しなさいと言っても、生徒もわかっていることだから伝わりにくい。

こんな話を例に考えさせることも大事かなと思う。

生徒に聞いたら面白かったそうだ。よく聞いていた。

うちのクラスは2年生で、そんな話をしたんだよと放課後にとある3年生に話をしたら

面白いですね、でも先生の終礼の話は長そうですねと言われた。

 

基本は話が長いのは朝のショートホームルームの方だ。

終礼はさっさと終えるようにしている。テスト期間は朝を短くしている

たまにショートホームルームは話が長いかな・・・