とある美術教師の制作日記

絵の制作や教育のことなんかのつぶやき

おかげさまで100個目の記事。

昨年、8月11日から始めたこのブログですが、

皆さんのおかげで記事が100個目になりました。

 

他の人も影響を受けて始めた記事を見られたのですが、

 

著者:樺沢紫苑

サンクチュアリ出版

「学びを結果に変えるアウトプット大全」

 

を読んで、その影響で始めました。

樺沢さんは、毎日15分、時間を作ってブログを載せようという話でしたが、

僕は11ヶ月で100がやっと。(最近はペースも遅く)

今後も、頑張って続けていきたいと思います。

読んだ人に、少しでも心に残る記事が書けたらと思います。

 

<近 況1:絵画>

10月のコンクールに向けて絵を描き始めました。

今回は風景画。山間部の学校に行っており、

壮大な風景が続くので大気のモヤを描いてみたくなり、チャレンジです。

F100号という大きさのサイズで描きます。

まだ、ほんのスタート。

 

<近 況2:通信制の大学院>

通い始めた通信制の大学院は、思ったより厳しく、遅刻、欠席が許されません。

久々、気が引き締まります。

大学の先生の知識の深さには驚かされます。

また、制作しなくてはならない作品量は、通常の通いの大学院並み。

仕事と家庭をやりながら大変ですが、なんとか頑張っています。

6月で4分の1の春期が終わり、成績も8単位を取得できました。

2年間で30単位取得なので、まぁ良いペースかなと思います。

学び直しの良さを感じます。

 

<近 況3:子ども囲碁教室>

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昨日、初の大会に初心者部門で長男、長女が参加しました。

もう親には、何を考えて打っているかわかりません。

無事に勝って、初心者用の13路盤(一回り小さい)を卒業になりました。

今月末には、大人と同じ19路盤で大会に参加します。

まずは初級(20級)です。

昨日のようには勝てないでしょう。

頑張ってほしいです。

 

どうでも良い写真。
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昨日、昼ごはんを某ハンバーガショップでドライブスルーして家で食べた。

ポテトを皿に広げて、1本を取ってみたところ、

ヤジロベーのようにバランスが取れた状態で載っていた。

奇跡の1本。

 

人間の器の育て方。

昨日と今日、学校の終礼でした話。

期末考査の監督をしながら、ふと思いついて生徒にした話。

 

「器の大きな人、器の小さな人という表現がある。

この器って何を指すか、わかる?」

 

「心の大きさや人間の大きさ、すごい人など・・・」と生徒は答える。

そこで柔らかい粘土で作った小さな器を生徒に見せながら、

それとは別に「高校と名札をつけたもう少し大きな器」を取り出す。

 

今、みんなはこの小さい粘土の器だとして、

大きな高校という器の型に合わせようと引き伸ばしているところだ。

でも、小さな器の粘土の量のままだと、(粘土の量が少なくて)高校という器に合わせるには足りない。

だから日頃の勉強や、こういう定期考査に向けて対策したりしながら、

さまざまな経験をして成長することで、もととなる粘土を増やして、

高校生という器に合わせて大きくなろうとしている。

途中でその型に合わせるのが嫌だと投げ出す、つまり高校を辞めてしまうと

粘土が少ない量のままで中途半端になってしまう。

そのままでも、それなりに形を整えることができる(見栄えのこと)。

(カッターで切って形を整えて見せる)

小さくてもかわいかったり、かっこよかったりと。

でも、器自体は小さいので、物はあまり入らない。(お菓子を少しだけ入れる)

何かあるとすぐにいっぱい、いっぱいになる。

器が大きいとちょっと苦手なものなんかを入れても、気にせず多くのものが入る。

色々なことがあってもそんなにびくともしない。

 

逆に勉強していれば良いかというと、

勉強しているだけでは頭でっかちになって(一輪挿しみたいな壺を出して)

高さは出るけれど、横への広がりが少なく、物はあまり入らない。

(壺の口にお菓子を詰まらせてみる)

勉強だけでなく色々な経験を通して、バランスよく大きくならないといけない。

 

こういう高校みたいな器の型があって、それに合わせていくと目標がわかりやすく、

器をバランスよく大きくしやすい。

かといって型に合わせすぎるとみんな似たり寄ったりになってしまう。

 

社会に出てしまうとなかなか、その土台となる粘土(自分の力)を増やしにくい。

生活などに追われてしまって、形や色を整えることはできるけど。

また、目標となる器の型が見えにくくてどう形を作っていくかわかりにくくなる。

 

自分では器をどう大きくしてかを考えて、

資格を取ったり、本で勉強したり、様々な社会経験の中から伸ばすなどになる。

自分で考えなくてはならない。

 

初めから器の大きな人はいない。

何かの器の型(目標)に合わせて努力しているうちにその型にふさわしい、

大きさの器になる。

みんなは自分をどんな器に育てていくか、それが一番に伸びるのが学生の時期。

細々したことに囚われず、まずは器を育てていってほしい。

という話を昨日した。

 

なぜ、今日まで続いたかというと、

「先生、横にとても広いけど、縁(ふち)のない真っ平な器はどんな人ですか?」

と質問が来たからだ。

副担任の先生とそのあと考えてみた。

大きく2つあるかなと考えた。

1つは淵のない皿は、「器」ではない。

淵で受け止められるから器の役割ではないかと。

それは器ではなく、板じゃないか。

 

縁の部分は何を指すのか、そこが悩んだ。

考えた答えは、上にただ伸びたら頭でっかちだったので、

やはり縁は、学力の部分ではないかと。

ただ横に広いだけでは、心が広くて優しいのだけれど、

この器の人には知恵がなくて、実は人を逃してしまう優しさだと。

 

優しさには気配り(知恵)がいる。

そういうタイプの人を先生の例でやってみると

「テスト勉強を1分頑張ったの、えらいね〜すごいね〜」と褒めて、

その後、「ごめん、赤点で留年だから」みたいな人なのかなと伝えた。

 

ただ、勉強しなさいと言っても、生徒もわかっていることだから伝わりにくい。

こんな話を例に考えさせることも大事かなと思う。

生徒に聞いたら面白かったそうだ。よく聞いていた。

うちのクラスは2年生で、そんな話をしたんだよと放課後にとある3年生に話をしたら

面白いですね、でも先生の終礼の話は長そうですねと言われた。

 

基本は話が長いのは朝のショートホームルームの方だ。

終礼はさっさと終えるようにしている。テスト期間は朝を短くしている

たまにショートホームルームは話が長いかな・・・

落選の作品を取りに行く。

この間、コンクールで落選した作品を取りに行く。

隣の県だったので、応募の時と同じように、レンタカーの軽トラで

高速道路に乗る。

 

なんか、落選の会場に向かう気持ちは少し、大学受験の発表と似ているなと思った。

大学の時は厳密には会場で結果を見るのだが。

教員採用試験で14回落ちたけれど、結果はインターネットで見るものだったので。

みんなが結果を見ようとして、県庁のホームページが動かず、

やっとアクセスできて、結果一覧のPDFをスクロールして美術のところまで

そわそわと緊張して見る。マウスのローラーを回す指がドギマギする。

2次試験、最下位で落ちたこともあるし、あと一人(次点)で落ちたこともある。

あと一人で落ちても実は結果を見る前に落ちた手応えがある。

でも、受かるときも、なんとなくわかっていて、やっぱりね、そうだよねとなる。

受かる時は余裕を持って受かる。

 

大学受験の合格発表に戻るけれども、大学受験も2浪した。

一番、不合格発表で辛かったのは1浪目の時だった。

2つ隣の県での合格発表で、一人、電車で見に行った。

1浪目はそんなに頑張れてなかったので、案の定、不合格だった。

 

大学のボードを見て帰っている時に、

これから合格発表を見に行こうとする絵の予備校の後輩と出くわした。

自分は不合格を知って帰るところ。

僕は、その後輩の受験番号を知っており、合格しているのを知っていた。

(本人はまだ知らない)

そのすれ違い挨拶を交わす時の気まずさ、

今でも、自分はどんな顔をしていたか気になる。

先輩としての見栄の薄ら笑いをしながら、愛想を返していたのだと思う。

かっこ悪い。

 

今回の落選もそうだけれど、

人間、たまにはそんなかっこ悪い機会も大事だねと思う。

反省を重ねて工夫をしていかなければと思う。

 

 

「どうでもいい、画像コーナー」その1

ロボット掃除機クン、君のその帽子はどうしたんだい?

どこかでダンボールを載せてきている。

そんなところはないはずだが。
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「どうでもいい、画像コーナー」その2

走行距離がラッキー「88888」km。

10万キロに一度の幸せだ。

実は77777kmの時、撮ろうとしてピントが合わず、撮れなかった。

まぁ、10万キロに9回はある幸せ。
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ナス天国、地獄のつづき

今日のクラスでナスのデッサンが終わり、

いる人はあげるよ。さらに15本も食うの大変だし。

と言っていたところ、女子の寮生が食堂のおばちゃんに持っていくと

気づいたら全部持っていってしまった・・・

 

「ナスまき餃子」の材料は昨日購入していたので、

また、ナスを買う羽目に。

美術部で美術の授業を選択していない生徒にもナスを描かせようと

ナスを結局、帰りに3本入りの2袋の6本を買った。

「ナスまき餃子」のレシピは著作権の関係もあるので

興味をある人は調べてみて下さい。

ナスをスライサーで薄切りにして、具を載せ、巻いていると

それを見た小2の娘が

「1週間、ナスか〜」と、声を上げた。

そんな料理の繰り返しを嫌がる言葉を聞いたのは初めてで笑った。

いやいや、まだ、5日目だ。

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↑並べて焼いてみると餃子みたいだ。

2本の餃子を2.5mm厚でスライスするとこれくらいの量ができる。
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ちょっと焦げたけれど、こんな仕上がり。

何をつけて食べたら良いかわからなくて、餃子のタレをつけて食べた。

ナスのとろりとした食感と片栗粉のどろっとした感が合わさった、

今までにない食感の餃子だった。

餃子の皮っぽくもある。

家族でみんな、喜んで食べた。

 

タレはポン酢くらいが良いのか、そこは答えが出なかった。

興味がある人はぜひ試してみて下さい。

ナス天国、地獄

デッサンや絵を描かせるのに、写真よりも実物を見て描かせた方が良い。

モチーフ(創作の対象)を見て、描くと五感で感じて描くため、

写真で見て描いたものよりも、質感や存在感、色味やみずみずしさなど、

写真を見て描く以上の、感性の詰まった作品になりやすい。

実力以上の力が出ることが多い。

実物を見て描くことは大切だ。

美術の先生あるあるだが、

そのために生徒数に合わせたモチーフを用意する必要がある。

 

モチーフの中で生徒たちも特に果物や野菜など、

食べ物を見て描くとテンションも上がって、やる気のある作品を描きやすい。

1年生が鉛筆デッサンをやっていて、鉛筆の黒さも出させたいので、

今回はナスを描くことにした。

ということでナスを二十数本購入して一人一本用意していた。

行事で授業が潰れるなどして、購入して10日位経ち、

やっとこの前の木曜日に描かせることができた。

生徒たちは食べられはしないけど、喜んで意欲的に描いていた。

 

問題はこの後だ。

美術準備室の冷蔵庫が壊れてしまい、

土日を学校で越すのは難しくなり、家に持って帰って調理することにした。

(このナスは自腹で購入している)

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それからはナス天国、地獄である。

木曜日の晩飯は麻婆茄子と茄子のおひたし。

金曜日の朝は茄子のおひたしの残りを食べる。

金曜日の晩は妻が作ったのでナスは出ず。
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土曜日の朝飯は手作りピザトーストで、焼きナスを載せて焼く。

土曜日の晩飯は上の画像のキーマカレーにまた焼きナスを載せる。

うちはキーマカレーは子どもが食べやすいように、チーズと半熟卵を載せる。

なんか見た目、グラタンぽい。

日曜日の朝飯はミルクリゾットに焼きナスを載せる。

日曜日の晩飯は麻婆丼にまたまた焼きナスを載せる。

なんとか、2本まで減らすことができた。

ナスは美味いけど、これだけ食べると体に良いのか、悪いのか、心配になる。

天国と地獄は表裏一体だ。

 

実は、明日も別の1年生の授業があり、ナスを15本購入した。

今度は流石に二人で1本にした。

まだまだ、ナスの天国と地獄は続く。

明日の晩御飯はネットで見つけた「ナス餃子」を考えている。

ナスをスライスして皮として使うそうだ。

 

落選した。


良い時ばかりでなくて、悪い時もちゃんと書かないといけないと思う。

勝負したつもりが入選にもならないとは。

へこむけど、仕方ない。

4〜5ヶ月くらい描いていた作品だ。

まだまだ未熟だなぁ。

だからこそ、今年から通信制の大学院に通い始めた。

この2年で大きく成長したい。

 

美術の人間は、打たれ強い。

それは制作している作品を見られて、批評されることが多いからだ。

また、コンクールも年に何度もある。

出そうと思えば毎月でも出すことができる。

その結果で何度も浮き沈みを味わう。

それに慣らされていく。

 

美術部の生徒もコンクールで強くなる。

高校の運動部で例えると大きい大会は年に4度ほどしかないが、

美術部では出そうと思うと何十回もコンクールがある。

年に10回は出すようにしている。

初めのうちは落選でも、出しているうちに賞に選ばれるようになる。

野球の素振りと一緒で振っていると安定し、ヒットが出るようになる。

そのうちホームランを打てることもある。

今の子どもは失敗経験が少なく、失敗することを恐れる。

でも、何度も出して浮き沈みを味合ううちに慣れてくる。

「くそ〜!次は頑張ろう」という風になる。

それが普段の生活面の行動力も変わってくる。

やってみて、失敗したら考えようと。

だから、美術に進もうと、進まないにしても、

美術を学ぶことは人生にとって良いことだと思う。

最近、美術部勢力拡大中です。

デッサンやりたいと意欲が高く、おかげで部活指導に力が入り、

仕事が少し裁けなくなりました。

ありがたい悲鳴だけど。

 

僕もその生徒たちに負けないように頑張りたい。

絵画のコンクールは、落選すると別のコンクールに出すことができるので、

手直ししてまた別のコンクールに出したい。

中途半端に入選しなくて良かったと考えよう。

何かに打ち込むこと。(高校総体)

この金、土、日は僕の県では高校総合体育大会だった。

一部では先行実施や、逆に明日以降も試合が続く部活がある。

土、日と自分のクラスの生徒が参加している部活動の試合の応援に行った

(行ける範囲で)。

高校総体は、運動部では一番大きな、3年生としては部活動最後の大会である。

勝ち進めば、全国大会であるインターハイに繋がる。

一部の競技は年末くらいにサッカーなら選手権大会、バレーボールなら春高バレー

バスケットボールならウィンターカップなどが3年生が出ることはできるが、

その大会の県予選に出場する3年生は全国を目標とする強豪校か、ごく一部だ。

やはりほとんどの3年生にとって最後の大会になる。

そして、小学校や中学校から続けていた部活動の終着点になる生徒がほとんどだろう。

よっぽど、大学でも専門的にやるか、プロにでもならない限りは、

第一線からは退き、今後はやっても趣味の延長線上になる気がする。

最後だからこそ、大会の盛り上がり方もすごい。

最後だから気持ちや力、技術の全てをぶつけてくる。

そのエネルギーがいつも以上の力を発揮したり、

逆に上手くいかず、変な空回りをしてしまうこともある。

部活動の指導はブラックだとネットニュースなんかに上がっているけれど、

今回は置いておいて。

見ていて思うのは、10代のこの時期に何かに打ち込むことは大切だなと思う。

この経験はあとの人生で大きな財産になると思う。

大人が仕事に一生懸命、打ち込むのとは異なる良さがある思う。

この期間を、家でゴロゴロしていたり、スマホの動画を見て過ごすのは惜しいなと思う。外見ばかりに気遣うのではなくて。

別に部活動ではなくて、漫画家を目指して漫画を描くとか、

ミュージシャンを目指して道端で歌うとかでも良い。

見返りを気にせず、打ち込んで欲しいなと思う。

そんなことを試合に打ち込む高校生たちを見ていて改めて感じた。

プロ野球とはまた違って甲子園の高校野球が人気があるのはその点だ。

 

人の目を気にせず、バカになって打ち込む、そんな時代が尊い

なんで大人になるとそんなことができなくなるのだろうか、

自分を含めて、大人は変な見栄を張っちゃうんだよなぁ。

美術部の生徒も人目を気にせず、好きなことに打ち込めるように育てたい。

少しはその芽が出てきたように思う。

大事に育てたい。